経歴明照幼稚園年少部、青山学院幼稚園・初等部・中等部・高等部から、1993年、青山学院大学文学部日本文学科に入学、2001年3月に卒業。和泉宗家取締役、和泉流宗家宗家会在籍。妻はタレントの羽野晶紀。[編集]狂言師1歳半より父・和泉元秀の元で狂言を学び、1977年、3歳の時に「靫猿」で初舞台を踏む。9歳で「三番叟」を、10歳で「奈須与市語」、16歳で「木六駄」「釣狐」を披く。1994年、秘曲「花子」を披く。1998年に一子相伝の秘曲「狸腹鼓」を披く。1995年、父の死後に「和泉流二十世宗家 和泉元彌」を名乗った。ただし能楽協会・能楽宗家会・和泉流職分会は彼を宗家と認めていない(後述の#和泉流宗家継承騒動を参照)。2002年、能楽協会から退会処分を受けて以降は能楽協会関連の舞台に立てず、能の間に演じる「間狂言(あいきょうげん)」を演じることは不可能となった。現在の活動舞台は株式会社和泉宗家の主催する自主公演のみであり、近年の主な活動は歌やトークを交えたショー形式の狂言ライブと狂言教室である。2005年の愛知万博(愛・地球博)や中華人民共和国での公演などにも狂言師として出演したが、現在の公演数は一時期に較べると減少し、国立能楽堂での公演も稀となり、自宅の稽古場(敷舞台)を会場にして公演を行ったこともある。タレントとして、NHKの大河ドラマ「北条時宗」やプロレスなど、狂言以外の芸能活動も行っているが、各種の騒動(後述)により活動は低調となった。2008年春以降、羽野のTV露出の影響から元彌もTV番組出演が増え、歌の発売も行うなど、タレント活動を再開した。[編集]プロレス参戦2005年10月、記者会見を開き、「今後は狂言の世界で培った『狂言力』を生かし、本場アメリカのエンターテイメントプロレスに挑戦したい」と、電撃的にプロレス参戦を発表し2005年11月3日、横浜アリーナで開催のハッスルマニアでプロレスデビューした[2]。応援団として、母の節子率いる「セッチー鬼瓦軍団」も登場(「鬼瓦」とはある大名が鬼瓦を見て故郷の妻を思い出すという有名な狂言の演目である)。「セッチー鬼瓦せんべい」(6枚1000円)は当日10分で完売した。元彌は、「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん。開場前からずっと上で待っておったのじゃ」と叫びつつヘリコプターの爆音とともに金色の派手な衣装で登場、満員の会場を沸かせた。試合では、対戦相手の元WWE所属レスラー鈴木健想との攻防を展開、プロレスの師であるAKIRAの援護、健想の妻浩子のパウダー攻撃の誤爆を挿んで、最後に「空中元彌チョップ」を連発してピンフォールを奪うというブックを完璧に遂行した。元彌は、「あくまでエンターテイメントの一環で、プロレスではなく、『狂言』というエンターテイメントの延長である」と発言している。